三国史記(新羅本紀)

三国史記(新羅本紀)

紀元前から7世紀頃までの朝鮮半島の様子が記録されている『三国史記』。
三国史記は現存する最古の朝鮮史書ですが、その中には倭や卑弥呼についての記述があります。

目次

三国史記とは

『三国史記』は、朝鮮半島の三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを記述した、現存する最古の朝鮮史書です。
ただし最古と言っても、『三国史記』自体は別の史料を多数参照しており、その参照史料が全て散佚している(今のところ見つかっていない)だけです。

本紀28巻・年表3巻・雑志9巻・列伝10巻の計50巻で構成され、このうち本紀は三国に分かれて書かれています。

  1. 新羅本紀:巻1~巻12
  2. 高句麗本紀:巻13~巻22
  3. 百済本紀:巻23~巻28

『三国史記』全体では紀元前から7世紀頃までの倭に関する記述も多く残っているものの、邪馬台国や卑弥呼の時代の倭については、新羅本紀にのみ記述があります。

資料データ

著者金富軾
成立年1143年執筆開始、1145年完成

出典

原文を見る@维基文库
2024.01.14 閲覧確認

信憑性

総合評価
( 2 )
メリット
  • 多数の史料を参照しているため記述された事象自体は信憑性が高い
デメリット
  • 参照しているはずの中国史書と年代や細かい内容が合っていない部分が多々ある
  • 三国史記内でも整合性が取れない記述がある

中国史書を多く参照している他、現在は散佚している朝鮮の史書も多々参照していると思しき記述が多くあります。
一方で、参照しているはずの中国史書と年代や内容が合っていない部分も多々あります。
また、三国史記内でも整合性が取れない記述がみられます。

以上のことから、総合的には信憑性が低い史料とみなされることが多く、記述内容を鵜呑みには出来ません。

メモ

整合性が取れない代表例では、温祚王条で16年に牛谷城で反乱が起きたという記事があります。
一方で、多婁王条では56年に王が牛谷城を築城することを命じたことになっており、16年には築城されていない城で反乱が起きたことになってしまいます。

信憑性が低いとみなされることが多いため、三国史記で引用されている、散佚していた史料の内容の信憑性も判断が難しくなっています。
三国史記は、かなり史書批判を要する史料です。

内容

ここでは、『三国史記』のうち邪馬台国や卑弥呼に関連しそうな時代の倭に関する記述を抜粋します。
全て新羅本紀の内容です。

阿達羅尼師今 条

阿達羅尼師今(あだつらにしきん)は新羅の第8代の王(在位:154~184年)。

五年、春三月、開竹嶺。倭人來聘。
(…中略…)
二十年、夏五月、倭女王卑彌乎遣使來聘。

『三国史記』「新羅本紀」第2 阿達羅尼師今
ポイント

『三国史記』によれば、新羅の始祖・赫居世居西干は「前漢孝宣帝五鳳元年(紀元前57年)」に即位したと記述されています。
阿達羅尼師今の在位期間は、そこから数えた場合154~184年になります。
しかし先述の通り、『三国史記』の信憑性は怪しいため、即位年や在位期間自体が間違っている可能性も大いにあり得ます。

この記述を鵜呑みにするならば、158年に倭人が来訪し、173年に倭の女王・卑弥呼が使者を派遣してきたことになります。

王の在位期間西暦事象
元年(一年)154年王に即位
五年158年倭人來聘
二十年173年倭女王卑彌乎遣使來聘

諸説ありますが、卑弥呼の方の記述は中国史書の内容を参照したものであり、十干十二支(12×5=60年周期)から逆算して年数を割り出したものと推測されます。
実際は1周(=60年)ずれており、本来は173+60=233年の記述ではないかとする説が有力です。

十干十二支
十干十二支

233年5月には、倭兵が東辺を侵略したという記述があります(後述)。
よって233年5月のうちに倭は使者派遣と戦争で2回朝鮮に来ていることになります(あるいは同時?)。

このことから、卑弥呼の記述だけでなく、倭に関する全ての記述が60年ずれているとする説もあります。
なお、倭の記述で中国史書を参照にしているものは卑弥呼のものくらいしかなく、他は朝鮮の散佚した史料などを基にしていると考えられています。

疑問点

倭に関する記述は、中国側の史料とは年代が合わないように見えます。
中国史書にある記述だけずれている?それとも倭の全ての記述がずれている?

また、仮に1周ずれていたとしても、魏志倭人伝の内容では景初二年(238年)6月に卑弥呼が使者を出していることになっており、年だけでなく月もズレが生じることになります。

伐休尼師今 条

伐休尼師今(ばっきゅうにしきん)は新羅の第9代の王(在位:184~196年)。

十年、
春正月甲寅朔、日有食之。
三月、漢祇部女、一産四男一女。
六月、倭人大饑、來求食者千餘人。

『三国史記』「新羅本紀」第2 伐休尼師今

この記述を鵜呑みにするならば、193年に倭人が大飢饉に遭い、食を求めて千余人も朝鮮に来たことになります。
当時の航海術的に、一度に千人以上も同時に航海できたか疑問視する声もあります。

王の在位期間西暦事象
元年(一年)184年王に即位
十年193年倭人大饑來求食者千餘人

奈解尼師今 条

伐休尼師今(なかいにしきん)は新羅の第10代の王(在位:196~230年)。

十三年、
春二月、西巡郡邑、浹旬而返。
夏四月、倭人犯境。遣伊伐飡利音、將兵拒之。

『三国史記』「新羅本紀」第2 奈解尼師今

208年四月に倭人が国境を侵してきたようです。
伊伐飡(役職名:新羅の一等官)に取り立てた王子の昔利音(せきりおん)を遣わし、兵を率いてこれを拒ませたという記述です。

王の在位期間西暦事象
元年(一年)196年王に即位
十三年208年倭人犯境

助賁尼師今 条

助賁尼師今(じょふんにしきん)は新羅の第11代の王(在位:230~247年)。

三年、夏四月、倭人猝至圍金城。王親出戰、賊潰走、遣輕騎追擊之、殺獲一千餘級。

四年、夏四月、大風飛屋瓦。五月、倭兵寇東邊。秋七月、伊飡于老與倭人戰沙道、乘風縱火焚舟、賊赴水死盡。

『三国史記』「新羅本紀」第2 助賁尼師今

232年四月、倭人が金城を包囲した。
王自ら出陣し、賊は潰走した。軽装騎兵に追撃させ、一千余を殺して首級を獲った。

233年五月、倭兵が東辺を侵略した。
秋七月、伊伐飡の于老と倭人は沙道で戦い、風に乗じて火で船を焚き、賊は水に飛び込んで全員死亡した。

2年連続で倭が朝鮮半島に攻め入っていたようです。

王の在位期間西暦事象
元年(一年)230年王に即位
三年232年倭人猝至圍金城
四年233年倭兵寇東邊

沾解尼師今 条

沾解尼師今(てんかいにしきん)は新羅の第12代の王(在位:247~261年)。

三年、夏四月、倭人殺舒弗邯于老。

『三国史記』「新羅本紀」第2 沾解尼師今

249年四月、倭人が舒弗邯の昔于老を殺した。

舒弗邯は役職名で、伊伐飡(役職名:新羅の一等官)の別名。
昔于老は人名で、『三国史記』巻45に列伝を建てられている新羅の高級官僚です。
第10代・奈解尼師今の長子(太子)の身分ながら、王位を継がなかったようです。

王の在位期間西暦事象
元年(一年)247年王に即位
三年249年倭人殺舒弗邯于老

味鄒尼師今 条

13代の味鄒尼師今の条には、倭に関する記述がありません。
年代が正しいとすれば、味鄒尼師今の在位期間である262~284年は倭と朝鮮は目立った国交や戦争がなかったことになります。

儒禮尼師今 条

儒禮尼師今(じゅれいにしきん)は新羅の第14代の王(在位:284~297年)。

四年、夏四月、倭人襲一禮部縱火燒之、虜人一千而去。

六年、夏五月、聞倭兵至、理舟楫、繕甲兵。

九年、夏六月、倭兵攻陷沙道城、命一吉飡大谷、領兵救完之。

十一年、夏、倭兵來攻長峯城、不克。

十二年春、王謂臣下曰:「倭人屢犯我城邑、百姓不得安居。吾欲與百濟謀、一時浮海、入擊其國、如何?」舒弗邯弘權對曰:「吾人不習水戰。冒險遠征、恐有不測之危。況百濟多詐、常有呑噬我國之心。亦恐難與同謀。」王曰:「善。」

『三国史記』「新羅本紀」第2 儒禮尼師今

287年夏四月、倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして去った。
289年夏五月、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
292年夏六月、倭兵が沙道城を攻め落とす。一吉飡(役職名:新羅の七等官)の大谷に命じ、領兵にこれを救わせた。
294年夏、倭兵が長峯城を攻めて来た。

295年春のこと。
王が臣下に向かって「倭人がしばしば城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。これに対し、舒弗邯の弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。まして百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、共に謀ることは難しい思います」と答えた。王は「そうか」といった。

王の在位期間西暦事象
元年(一年)284年王に即位
四年287年倭人襲一禮部縱火燒之虜人一千而去
六年289年聞倭兵至理舟楫繕甲兵
九年292年倭兵攻陷沙道城命一吉飡大谷領兵救完之
十一年294年倭兵來攻長峯城不克
十二年295年朝鮮が倭を攻めるか検討したが特に行動は無し

基臨尼師今 条

基臨尼師今(きりんにしきん)は新羅の第15代の王(在位:298~310年)。

三年、春正月、與倭國交聘。

『三国史記』「新羅本紀」第2 基臨尼師今

300年春正月に、倭国と使者を派遣し合った。

王の在位期間西暦事象
元年(一年)298年王に即位
三年300年與倭國交聘

訖解尼師今 条

訖解尼師今(きっかいにしきん)は新羅の第16代の王(在位:310~356年)。

三年、春三月、倭國王遣使、爲子求婚、以阿飡急利女送之。

『三国史記』「新羅本紀」第2 訖解尼師今

312年春三月に、倭国王が使者を遣わし、子のために求婚してきたので、阿飡(役職名:新羅の六等官)の急利の娘を倭国に送った。

王の在位期間西暦事象
元年(一年)310年王に即位
三年312年倭國王遣使爲子求婚以阿飡急利女送之

年代が正しいとすれば、312年に倭国王の子が新羅官僚の娘を貰っている(つまり倭国王の子は男)ことになります。
312年以降の倭国の次代王は男王の可能性が高いことから、卑弥呼や台与といった女王による支配は、遅くとも320~350年頃には終わっていると思われます。

年表

『三国史記』の新羅本紀から、邪馬台国や卑弥呼に関連しそうな時代の倭に関する記述を表にまとめると以下の通りになります。

西暦事象備考
158年倭人來聘
173年倭女王卑彌乎遣使來聘60年ずれた233年の間違い?
以下全て60年ずれている可能性アリ
193年倭人大饑來求食者千餘人
208年倭人犯境
232年倭人猝至圍金城
233年倭兵寇東邊
249年倭人殺舒弗邯于老
287年倭人襲一禮部縱火燒之虜人一千而去
289年聞倭兵至理舟楫繕甲兵
292年倭兵攻陷沙道城命一吉飡大谷領兵救完之
294年倭兵來攻長峯城不克
295年朝鮮が倭を攻めるか検討したが特に行動は無し
300年與倭國交聘
312年倭國王遣使爲子求婚以阿飡急利女送之
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