論衡

論衡

『論衡』は中国正史以外では倭国・倭人についての最も古い史料となっています。
周王朝の時代に、倭人が朝貢していたことを伝えています。

目次

論衡とは

全30巻85篇(うち1篇は篇名のみで内容は散佚)からなる中国・後漢時代の思想書で、あらゆる分野について記述されています。

あくまで著者である王充が独自に作成したものであるとされいて、正史(※)には分類されていません。
王充が若い時から書き続けてきたものとされ、長い年月をかけているせいか一貫性に欠ける面が目立ちます。

中国以外の国についての記述もあり、正史以外では倭国・倭人についての最も古い史料となっています。

※正史とは国家王朝が公式に編纂した資料・歴史書のこと

資料データ

王充像
王充像
著者王充(おうじゅう)
成立年97年より後

『論衡』自紀篇にて七十歳の心境を語っていることから、王充の生年である建武3年(27年)から70年経過した永元9年(97年)ではまだ執筆中と思われます。

信憑性

総合評価
( 2.5 )
メリット
  • 誇張せずに真実を記す文章を目指したため、起こった事象自体は真実に近い可能性が高い
デメリット
  • 王充自身の考えが多々記述されており、”考え”については偏りがあると言わざるを得ない
  • 王充が独自に作成したものであるとされいて、正史には分類されていない

王充は誇張せずに真実を記す文章を目指したようで、記述された”事象”については真実に近いと思われます。
ただし、王充自身の考えが多々記述されており、”考え”については偏りがあると言わざるを得ません。
また、自身の考えが盛り込まれている事実から、自分に不都合な事象は記述していない可能性は否定できません。

注意点

記述されている内容は、ほとんど著者・王充が生まれる前の出来事です。

『論衡』には、後漢時代の話だけでなく、周時代(紀元前1046年頃~紀元前256年頃)の話も含まれています。
注意点として、王充が生きていたのは西暦27年~97年(諸説あり)であり、紀元前のことは王充が直接体験したものではありません。
そのため、特に周時代の話の信憑性は疑う余地があります。

内容

ここでは『論衡』の中から、倭国・倭人に関して記述している部分についてのみ抜粋・記載します。

周とは

『論衡』では、周王朝に倭人が朝貢していたことを伝えています。

周とは、紀元前1046年~紀元前256年頃の中国の王朝のことです。
殷王朝時代に存在した周国が徐々に力を付け、後に殷王朝を倒して王朝となっています。
日本古代史の「倭人は呉の太伯の末裔説」で登場する太伯は周国の関連人物です。

人物関係性生没年功績
古公亶父生没年不詳周国の君主
┗太伯古公の長男生没年不詳呉国を建国、倭人の祖という説がある
┗虞仲古公の次男生没年不詳兄の後を継ぎ呉国の君主になる
┗季歴古公の三男生没年不詳周国の君主
 ┗文王季歴の子生没年不詳周国の君主
  ┗武王文王の子生年不明~紀元前1043年殷王朝を滅ぼし周王朝を創立
周国に関連する人物の関係表

『論衡』での倭の記述

倭に関する記述は、全部で3文あります。

【成王時代】暢草を献じた

朝貢時期が明確に記載されているのはこの1文のみ。

「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」


超簡易的な現代語訳

成王の時、越裳は雉を献上し、倭人は暢草を貢いだ。

『論衡』巻19:恢国篇58

越裳とは、中国南部に居住していたとみられる民族で、鳥のキジを献じたようです。
キジは、ユーラシア大陸に分布する「コウライキジ」と日本のみに分布する「キジ」があり、それぞれ別の種と考えられています。
定説ではコウライキジを献上したとされますが、日本のキジを献上したとする説も存在します。

倭に関しては、”倭国”ではなく”倭人”と人種表記であるため、どんな国から来ていたのかは不明です。

中国・周王朝の第2代の王である成王とされる絵。
成王とされる絵

成王とは、周王朝の第2代の王です。
在位期間は紀元前1042年~紀元前1021年とされているが諸説あり。

少なくとも紀元前1000年頃には倭人と中国王朝の交流があったことが分かります。

暢草については次項で説明します。

【時期不明】暢草を献じた

周時天下太平 倭人來獻鬯


超簡易的な現代語訳

周の時、天下太平にして、倭人来て暢草を献じた。

『論衡』巻5:異虚篇18

異虚篇によれば、倭は暢草を献上したとしています。

暢草は詳細が分かっていません。
ウコン説や、酒に香りづけしたもの説などが定説です。
中でもウコン(鬱金草)は酒に浸して香りづけするもので、鬱鬯酒の原料であるという合体説が主流です。
匂いが独特なセリ科の植物説や、昆布説などもあります。

なお超奇篇では、倭からであるという明確な記載がないものの、暢草が献上され珍物産であると紹介されています。

白雉貢於越 暢草獻於宛 雍州出玉 荊楊生金
珍物產於四遠 幽遼之地 未可言無奇人也


超簡易的な現代語訳

白雉は越に献上され、暢草は宛に捧げられ、雍州では玉が産出し、荊楊では金が生まれます。珍しい物品は四方からもたらされ、幽遼の地(中国北東部)は言い表せないほど奇妙な人々の住む場所です。

『論衡』巻13:超奇篇39
ウコン説

ウコンの中国伝来は、『唐本草(新修本草)』という659年頃の本にが初出とされ、同時期に伝来したと推測されます。

ウコンの日本伝来は18世紀初めにとされているが、実は縄文時代の日本にも存在していて、それを献上したという主張です。日本伝来時期については、公益社団法人東京生薬協会HP他参照。

香りづけ説

医学博士で東北帝国大学(現在の東京大学)教授だった小酒井不木は、随筆「毒と迷信」の中で以下のように論じています。

周の成王の時、倭人が暢草を献じたと「論衡」といふ書に見えて居り、この暢草は香ひ草で、祭祀に当り、酒に和して地に注ぐと、気を高遠に達して神を降すの効ありと言はれて居た。

日本の名随筆 別巻78 毒薬(作品社 1997年刊) 毒と迷信

しかし、根拠・証拠となる材料に乏しいのが難点です。

【時期不明】草を献じた

周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶


超簡易的な現代語訳

周の時代において、天下は太平であり、越裳は白雉を献上し、倭の人々は鬯草を貢ぎ、白雉を食べ、鬯草を服用して、災厄を除くことができなかった。

『論衡』巻8:儒増篇26

鬯草も詳細が分かっていません。
暢草と同一とする考えも、別物とする考えもあります。

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