古事類苑 ~日本唯一の官撰百科事典~

古事類苑

古事類苑は、日本最大にして唯一の「官撰百科事典」です。
政府主導であるため、見方によっては日本国の公式見解としても解釈されることもあります。

目次

古事類苑とは

古事類苑は、明治政府主導で編纂した類書(百科事典)で、日本最大にして唯一の「官撰百科事典」です。
政府主導であるため、見方によっては日本国の公式見解としても解釈されることもあります。

あらゆる文献から例証を引用し、分野別に編纂されています。
全1000巻におよび、天部、歳時部、地部、神祇部、帝王部、官位部、封禄部、政治部、法律部、泉貨部、称量部、外交部、兵事部、武技部、方技部、宗教部、文学部、礼式部、楽舞部、人部、姓名部、産業部、服飾部、飲食部、居処部、器用部、遊戯部、動物部、植物部、金石部の30部門に分かれています。

1879~1907年(明治12年~明治40年)に編纂されました。
1896~1914年(明治29年~大正3年)に順次刊行されています。

出典

原文を見る@国文学研究資料館
2024.01.14 閲覧確認

2024.04.27 サイト改変で探しにくくなったため廃止

国際日本文化研究センター経由で閲覧可能な以下を紹介します。
原文を見る@国際日本文化研究センター 古事類苑全文データベース

倭に関する記述

古事類苑の地部に、倭の条があります。
その中で、漢書や後漢書の倭に関する記述を引用して、倭について説明している部分があります。

以下は、古事類苑の地部の倭条の全文です。

〔下學集 上天地〕

〔下學集 上天地〕
倭國(ワコク){指日本國倭、烏禾切、}

『古事類苑』「地部」巻1 地總載 倭國

〔段注說文解字 八上人〕

〔段注說文解字 八上人〕
〓順貌{倭與委義略同、委隨也、隨從也、廣韵作愼貌、乃梁時避諱所改耳、}

『古事類苑』「地部」巻1 地總載 倭國

〔山海經 十二海内北經〕

〔山海經 十二海内北經〕
蓋國在鉅燕、南倭北倭屬燕、{倭國在帶方東大海内、以女爲主、其俗露紒、衣服無針功、以丹朱塗身、不妬忌一男子數十婦也、}

『古事類苑』「地部」巻1 地總載 倭國

〔異稱日本傳 上一〕

〔異稱日本傳 上一〕
今按、王充論衡曰、禹益幷治洪水、禹主治水、益主記異物、海外山表、無遠不至、以所聞見作山海經、觀此則山海經者、益之所作、堯時之書也、山海經有倭名、則倭名舊矣、凡異邦人、以我朝名倭、此爲權輿乎、然據我舊記、則倭名爲起於漢時矣、

『古事類苑』「地部」巻1 地總載 倭國

馭戎槪言 上之上〕

〔馭戎槪言 上之上〕
後漢の光武が時に、倭奴國奉貢といへるは、倭奴國はいづれの國をいへるにか、さだかならねど、これも凡百餘國といへる中の一つにて、倭國之極南界也とあれば、つくしなどの南のかたつかたなるべし、然るを此後漢書の註にも倭といひ、唐書などに、日本古倭奴也といへるは、いかにぞや、こは本の詞をよくもわきまへず、なほざりに見て、まぎらはしつるひがことなるを、御國の人すらなほわきまへず、倭奴をも、ただ倭とひとつことと心得をるかし、さるからかへりて、かの倭國之極南界也とあるをも倭は國(クニ)の極南界也として訓(ヨメ)るは、いみじきひがことなり、さるつたなき文詞あらんやは、

『古事類苑』「地部」巻1 地總載 倭國

〔後漢書〕

〔後漢書 五安帝〕
永初元年十月、倭國遣使奉獻、{倭國去樂浪萬二千里、男子黥面文身、以其文左右大小別尊卑之差、見本傳、} ○按ズルニ、釋日本紀引ク所ノ後漢書ニハ、倭國ヲ倭面國ニ作レリ、
〔後漢書 八十五東夷列傳〕
倭在韓東南大海中、依山島爲居、凡百餘國、○中略 建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、之號二說未知孰是、但以後漢倭奴、倭面之號、及唐書倭國、自惡其名不雅之言攷之、後說恐爲是蓋據前說則俯、就漢人之訛、據後說則甘受漢人之慢、以此爲我國之號豈理也哉、中葉以降曰倭歌、曰倭訓、曰倭琴、因循流傳至不可改、是可歎也、

『古事類苑』「地部」巻1 地總載 倭國

〔國號考〕

本居宣長の『国号考』より引用しています。
倭の由来が不詳であることを述べられています。

原文では〔國號考〕として長文が続きますが、ここではある程度の意味で区切っておきます。

漢書の話

〔國號考〕
倭の字 倭の字は、もともろこしの國よりつけたる名にて、その始めて見えたるは、前漢書地理志に、東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設桴於海、欲居九夷、有ル㠯也夫(ユヱカナ)、樂浪海中有倭人、分爲百餘國、㠯歲時來獻見云、といへる是なり、その後の書どもにも、みなかく倭人といひ、又はぶきて倭とのみもいへり、

さて倭とは、いかなる意にて名づけつるにか、その由はさだかに見えたる事はなけれども、かの漢書に、東夷天性柔順と書出して、有倭人とつらねいへるを思へば、班固が意は、說文に此倭ノ字の本義を順貌と注したると同じくて、柔順なる故に倭人とはいふと心得たるごとく聞ゆめり、されどそれも字につきてのおしはかりなるべし、

『古事類苑』「地部」巻1 地總載 倭國

倭という名前の由来は「ワヌクニ」を自称した説

また皇國の舊說に、此國之人、昔到彼國、唐人問云、汝國之名稱如何、自指東方答云、和奴國耶云々(ワヌクニヤトイヘリ)、和奴(ワヌ)ハ猶言我也、自其後謂之和奴(ワヌ)國也、と釋日本紀元々集などに載られたれども、これも信がたき說なり、

そのゆゑは、まづ和奴國(ワヌクニ)といふ名は、後漢書にはじめて見えて、倭國之極南界也とあれば、皇國の内の南の方の一國の名なるを、唐書などにこころえあやまりて、皇國の舊の大號のごとく書るを、そののちみな此誤りを傳へて、かしこにてもここにても、たださる事とのみ思ひ居るは、いみじきひがことなり、

この事おのれ馭戎槪言につばらかに辨へ論へり、されば倭奴(ワヌ)は、もとより國名にまれ、又我といふ意にて答へたるにまれ、皇國の内の一國の名なれば、これをもて、大號の倭てふ意を說べきにあらず、

『古事類苑』「地部」巻1 地總載 倭國

倭奴國は中国語で「オノコ」である

又或說に、倭奴國を唐國の音にていへば、於能許(オノコ)にて磤馭廬(オノゴロ)島といふ事なりといへるもひがことなり、
磤馭廬島(オノゴロシマ)は、大八洲より先には出來つれども、淡路島のほとりにある一つの小島の名にてこそあれ、神代より天の下の大號にいへることさらになし、
然れば皇國人のいはぬ名を、外國の人の知て名づくべき由あらめやは、此說はもと、近き世に神道者といふものの、此おのごろ島を、皇國の本號のごと說なせるによりていへるなり、

また倭奴國といふはおのごろ島、おのころ島は丈夫(ヲノコ)島といふ意なりといふ說は、殊にあたらぬ事なり、

『古事類苑』「地部」巻1 地總載 倭國
「倭奴国」は中国語で”オノコ”

「倭奴国」をGoogle翻訳にて現在の中国語で読んだ結果は以下の通りです。

「倭奴国」現在の中国語で読んだ結果
オノコとはオノゴロ島(淤能碁呂島)を指している説

オノゴロ島とは、国生み神話に登場する島です。
日本はいくつもの島で構成されますが、神話によれば、最初にできた島がオノゴロ島(磤馭廬島または淤能碁呂島)です。

国生み神話

イザナギノミコト(男神)とイザナミノミコト(女神)が「天浮橋(神が地へ降りた際に渡ったとされる、宙に浮く橋)」に立ち、国生みを行った。天の沼矛を海原に下ろし、「こをろこをろ(コロコロ)」とかき回し矛を持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島となった。これがオノゴロ島である。

そのオノゴロ島(淤能碁呂島)でイザナギノミコトとイザナミノミコトが性交します。
すると8人の子供(島)が生まれ、それぞれ淡路島、四国、隠岐島、九州、壱岐島、対馬、佐渡島、本州となりました。こうして日本の国土が誕生したとされています。

古事類苑の”磤馭廬島は、大八洲より先には出來つれども”とは、8島より先にオノゴロ島ができたことを指しているとしています。

そして古事類苑では、「倭奴国」を中国語読みしたオノコから発想した【オノゴロ島 = 倭奴国】と言う説は間違っていると主張しています。

倭とヤマトの関係

こは於(オ)と遠(ヲ)と音の異なるをだにもしらぬみだりごとぞかし、夜麻登(ヤマト)といふに、やがて此倭の字をあてて書ク事は、いといと古ヘよりのことと見えたり、
古事記にもみな此字をかき、又書紀にも、日本と書て夜麻登と訓(ヨム)事は、神代卷に此云耶麻騰、と註あれども、倭の字を書るにはかかる註もなければ、世にあまねく用ひならへることしられたり、すべて文字は、萬の物の名も何も、もろこしの國のを借用る例なれば、これもかの國より名づけて書る字を、そのまヽに用ひむ事、さもあるべきわざなり、

然るを此字嘉號にあらずといひて、嫌ふ人あれども、字の意はいかにもあれ、皇大御國の號となりては、すなはち嘉號なるをや、

さて此倭の字、もろこしより名づけたるは、大號のみにて、畿内のやまとをば皇國人のいへるを聞てかけりとおぼしくて、後漢書魏志などに耶馬臺(ヤマト)、隋書、北史などにも耶摩堆(ヤマト)といへり、然れども皇國にては、畿内のにも通はして、みな倭の字を用ひたり、

『古事類苑』「地部」巻1 地總載 倭國

〔日本書紀 二十九天武〕

〔日本書紀 二十九天武〕
三年三月丙辰、對馬國司守忍海造大國言、銀始出于當國、即貢上、由是大國授小錦下位、凡銀有倭國初出于此時、

『古事類苑』「地部」巻1 地總載 倭國

〔書言字考節用集 一乾坤〕

〔書言字考節用集 一乾坤〕
和國(ワコク){異域之書稱日本曰倭、山海經爲始、}

『古事類苑』「地部」巻1 地總載 倭國

〔國號考〕

本居宣長の『国号考』より引用している。

〔國號考〕
和の字 和といふは、皇國にて後に改められたる字なり、さる故に、異國の書に、大號に此字を書ることさらになし、思ふにこれは、古ヘより倭の字を用ひ來つれども、もと異國よりつけたる名にして、美字にもあらずとしてぞ、同音の好字をえらびて、改められたりけむ、さるに古はただ、夜麻登といふ名をのみむねとはして、文字はいかにまれ、假の物なれば、よきあしきさたにも及ばず、あるまヽに倭の字を用ひ來にしを、やヽ後には、文字の好惡きをもえらばるる事になれりしなりけり、さて此和の字の事、上に引る漢書の文、又順貌と注せるなどに、和順などともつづくを合せておもへば、倭と字義も遠からず、また書紀の繼體天皇ノ御卷の詔詞に、日本邕々(ヤマトヤハラギテ)名擅天下云々とある、邕は雝と通ひて、詩の大雅に雝々といふ註に、鳳凰鳴之和也とも、和之至也ともいへる、又聖德太子の憲法の首に、以和爲貴とある、又もろこしにて雍州といふは、もと王都の國の名なる故に皇國にても後世にこれにならひて、山城國を雍州といふ、此雍字も雝と通ひて、和也といふ註ある、これらみな由あれば、いづれにまれその義を取れたるかとも思はるれど、それまでもあるべからず、すべての事後に考ふれば、おのづから由ある事どもはくさぐさいでくる物なり、また子華子てふ書には、太和之國といふこともあれども、これらはさらに由なし、倭をのの和の字に改められつるは、いづれの御代にかと考るに、齋部正通の神代卷口決に、天平勝寶改爲大和と見え、拾芥抄にも、天平勝寶年月日改爲大和とあり、これらは後世の書なれども、よりどころありげに聞ゆる故に、なほ古書どもを考へ見るに、まづ古事記はさらにもいはず、書紀にも和の字にかけることは見えず、續紀に至りて、はじめて此字にかけること見えたり、これによりて、かの天平勝寶とあるが、妄にもあらざることをかつ〴〵しりぬ、されども然改められたることはしるされず、故なほ委く彼紀を考ふるに、はじめのほどは倭の字をのみ書て、そのあひだには、和の字に書るは一つも見えず、元明天皇の御代、和銅六年五月の大命に、畿内七道諸國郡郷名著好字とあれども、これは改らずと見えて、其後も猶もとのまヽに倭ノ字なり、さて聖武天皇の御代、天平九年十二月丙寅、改大倭國爲大養德(オホヤマト)國、同十九年三月辛卯、改大養德國依舊爲大倭國とあれば、此時もなほ倭の字なりしことしられたり、其後も孝謙天皇の天平勝寶四年十一月乙巳日の下に、以從四位上藤原朝臣永手爲大倭守とあるまでは、みな倭字にて、その後天平寶字二年二月己巳日の勅に、はじめて大和國と見えたる、これより後は、又みな和の字をのみかかれたり、これにてまづ、勝寶四年十一月より、寶字二年二月までの間に改められたりとはしられたり、それも何となく和の字を書出せるにはあるべからず、かの養德と改められし時の例を思へば、此和の字も、かならず詔命にて著られたりけむを、紀にはその事しるし漏されたるなるべし、類聚國史などにも見えざれば、後に寫し脫せるにはあらじ、さて又萬葉集を考ふるに、十八の卷までには、歌にも詞にも、和の字を書る所はなくして、十九の卷、天平勝寶四年十一月二十五日、新嘗會肆宴應詔歌六首の中に、右一首大和國守藤原永手朝臣とある、これ和の字を書る始めなり、又二十ノ卷に、先太上天皇詔陪從王臣曰、夫諸王卿等宜賦和歌而奏云々、右天平勝寶五年五月云々とある、これに始めて和歌とも書り、そも〳〵かの永手朝臣を大倭守とせられしは、上に引る紀の文のごとく、勝寶四年十一月乙巳日にて、乙巳は二日なるに、そこにて猶倭の字をかけると、此萬葉に、その同月の二十五日の事に、和の字を書るとを引合せておもへば、まことに天平勝寶四年十一月の、三日より二十四日までのあひだに、改められたるなりけり、さて又大倭宿禰といふ姓は、かの養德と改められし時も、その字にしたがひて、大養德宿禰とかかれたれば、和の字に改まりたる時も、それにしたがふべきわざなるに、寶字元年六月の所までも、なほ倭字をかきて、同年十二月の文より始めて大和宿禰とあり、そのころは既に姓氏の文字なども、私に心にまかせてはかかず、必おほやけより勅有て、定められし事なれば、國名の和の字に成しとき、此姓の字も、然改むべき勅あるべきに、其後しばしなほ舊のまヽに書しは、此姓の字改むべき勅は、寶字元年に至りて有しなるべし、さて寶字元年の所に、此姓を大和宿禰と書るにて、國名の方は、それよりさきに既に改まりつること、いよいよいちぢるし、すべて續紀には、はじめに倭の字、なかほどはみな倭の字をのみ書て、和と書ることなく、和の字に書キ始めて後は、又みな和の字のみにて、倭を書雜へたることはなければ、改められつる年月も、おのづから右のごとくには考へしらるるなり、然るを田令の中に、大和と書る所あり、又書紀ノ崇神ノ御卷にも、和と書る所一つあり、又續紀八の卷にも、二所大和國とかき、和琴ともかき、又萬葉集七の卷にも、和琴とかける、これらはみな後に寫し誤れるものなり、その前にも後にも、いとおほかるやまとに、みな倭の字をのみ書る中に、いとまれまれに一つ二つ和と書クべき由なければなり、後ノ世には、心にまかせて通はし書く故に、ただ同じことと心得居て、ふと寫したがへたるなるべし、又和銅てふ年號もあれども、此和はやまとの義にはあらず、さて上件續紀に出たるは、皆畿内の大和一國の名の字にて、天の下の大號のやまとのさたにはあらず、大號のには、書紀よりして、おほくは日本といふ字を用ひられたりし故に、そのさたには及ばざりしにや、和の字に改まりて後も、畿内の國名ならぬには、なほ倭の字をも廢ずして、すなはち續紀などにも、倭根子天皇などとかかれ、その外にもおほく見えたり、しかはあれども、大號も本はかの一國の名よりおこれるに、その本を改められつるうへは、何事にもみな、和の字を用ひむをや宜しとはいふべからむ、

『古事類苑』「地部」巻1 地總載 倭國

〔日本書紀 五崇神〕

〔日本書紀 五崇神〕
六年、先是天照大神、和○和諸本作倭、永享本作大倭、 大國魂二神並祭於天皇大殿之内、○下略

『古事類苑』「地部」巻1 地總載 倭國

〔令義解 三田〕

〔令義解 三田〕
凡畿内置官田、○義解略 大和攝津各卅町、○下略

『古事類苑』「地部」巻1 地總載 倭國

〔秦山集 雜著十七甲乙錄三〕

〔秦山集 雜著十七甲乙錄三〕
木下氏博學固然、然格致之功、恐無足觀焉、木下氏曰、倭人自堯時已朝貢見山海經、予曰、山海經文注者、固當曰日本、然既曰北倭南屬燕、則非日本可見、燕與日本風馬牛尚不足比也、木下又曰、黑齒國、君子國、扶桑國皆日本也、予曰、染齒我國中古之事也、上古無之、木下曰、他曾無染齒國、又無名倭國、予雖湖葦之老、木下又益耄矣、故予不及爭而止、今太平之餘、來貢之國多矣、近來因錄其各國之俗、有號華夷通商考書刊行、予考之、應天府下有和州、東京政趾、男女皆染齒木下豈不之考歟、史記、漢書、及我國史、不取山海經之妄說、山海經後世之僞作歟、或兩國史眼目明歟、木下氏雖博學、其無識見於此可見、

『古事類苑』「地部」巻1 地總載 倭國
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