漢書(前漢書、漢書地理志)

漢書(前漢書、漢書地理志)

邪馬台国の時代より前に当たる”紀元前”の倭国の様子が記録されている『漢書』。
別名『漢書地理志』や『漢書地理志燕地条』とも言う漢書は、倭についての最古の記録であるとされています。

目次

漢書とは

漢書は、中国の王朝・前漢について記した歴史書で、「本紀」12巻・「列伝」70巻・「表」8巻・「志」10巻の合計100巻で構成されています。
前漢は紀元前206年~紀元後8年までの王朝です。

『漢書』における倭の位置付け
『漢書』における倭の記載の位置付け

「志」10巻のうちの第8巻・地理志の燕地条(中国の燕国・燕州について記述した条)の中に、倭についての記述があります。
これが、倭についての現状最古の記録となっています。

そのため、日本では『漢書地理志』や『漢書地理志燕地条』という名で通っています。
また、現在出回っている漢書は通常、顔師古(がんしこ)がつけた注釈付きのものです。

漢書とは?

全100巻で構成される中国の歴史書。
倭についての記載は、「漢書」の中の
全10巻からなる志の中の地理志の
燕国について記載された条にあります。

後漢書との区別から「前漢書」と呼ばれることもあります。

『史記』との関係

同じく前漢のことを記述している歴史書に『史記』があります。
しかし『史記』は、紀元前90年頃に完成しているため紀元前90年頃~紀元後8年までの約20年分の記述がありません。
他にも『史記』には矛盾点や不統一性があるなど、内容に心もとない面があったようです。

そこで『史記』の後を引き継ぎつつ批判する形で、班彪が64編からなる”後伝”を作成していました。
その班彪の子である班固(はんこ)が『史記』と”後伝”を基に『漢書』を作成しています。
さらに、年表8つと天文志は班固の妹である班昭と経学者の馬続によって補完されました。

編纂者生没年役職功績
司馬遷紀元前145/135年~
紀元前87/86年
前漢の歴史家紀元前90年頃に『史記』を完成
しかし、前漢は紀元後8年までの王朝である
班彪3~54年後漢の歴史家『史記』を引き継ぐ”後伝”を作成
班固32~93年班彪の息子
後漢の歴史家・文学者
『史記』と”後伝”を基に漢書を作成
漢書の作成途中で獄死
班昭45~117年班彪の娘
中国初の女性歴史家
八表・天文志を書き継いで漢書を完成
馬続詳細不明学者班昭を助けたとされている
「後漢書」列女伝・班昭などから推測

資料データ

班固像
班固像
著者班彪、班固、班昭、馬続
成立年82年頃(諸説あり)

漢書は『史記』がベースになっています。

出典

原文を見る@漢籍電子文献資料庫
「免費使用」をクリックし、「楽浪海中有倭人」で検索すると倭に関する記述を確認できます。
2024.01.13 閲覧確認

信憑性

総合評価
( 5 )
メリット
  • 歴史上の記録を重視した記述になっていて正確性が高い
  • 通史ではなく断代史(一つの王朝に区切った歴史書)なので内容が専門的
デメリット
  • 前漢時代を実質生きていない複数人で記載しているため細かい内容の正確性は疑問

『漢書』は二十四史と呼ばれる中国の正史の中で『史記』と並んで最高の評価を受けています。
特に歴史上の記録という面を重視されていることから、記述内容の正確性は『史記』より高いとされています。

ただし実質前漢時代を生きていない複数人が記載しているため、細かい内容の正確性には若干疑問が残ります。
(正確には、班彪は紀元後3年生まれとされるため、前漢が滅んだ紀元後8年までの5年ほどは前漢時代を生きています。しかし年齢的に、前漢について自身の記憶・体験から記述されたものはほぼ無いと思われます。)

内容

漢書地理志の中で倭に関して触れているのは、ほぼ一文だけです。
しかし、あえて倭の話より少し前の文から触れたいと思います。

従順な東(朝鮮)の国

以下は、倭に関する記述の前の文です。

「玄菟・楽浪、武帝時置。皆朝鮮・濊貉・句麗蛮夷。
殷道衰、箕氏去之朝鮮、教其民以礼儀、田蠶織作。
可貴哉、仁賢之化也。
然東夷天性柔順、異於三方之外。
故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。」


超簡易的な現代語訳

玄菟・楽浪郡は、武帝の時に置かれた。皆、朝鮮・濊貉・句麗といった蛮夷である。
殷国の政道が衰え、箕氏は(中国を)去って朝鮮へ行き、そこの民に礼儀を教え、農作・養蚕・機織りをさせた。
「仁賢の化」は貴ぶべきであるなぁ。
そのため東夷の天性は柔順であり、そこが他の三方(北狄・南蛮・西戎)とは異なる
ゆえに孔子が、(中国で)道徳的なことが行われないことを遺憾に思って、海を越え九夷(東方の多くの夷)の地に行こうと言ったのは、そんな理由があったのだろうか。

『漢書』巻28『地理志』「燕地条」

箕子朝鮮

箕子(きし)とは、中国・殷王朝の政治家で、朝鮮で箕子朝鮮を建国した人物です。

「武王既克殷、訪問箕子、於是武王乃封箕子於朝鮮」


超簡易的な現代語訳

武王は殷を征服した後、箕子を訪問し、その後武王は箕子を朝鮮に封じた。

『史記』宋微子世家第8

殷を倒して周を建国した武王が、殷で有能だった箕子を朝鮮に封じたようです。
ただし左遷のようなことではなく、箕氏は”朝鮮半島の政治を任された”とする考えが主流です。

殷の遺民を率いて朝鮮にやってきた箕子は、犯禁八条など朝鮮人の教化策を実施し、理想的な社会を作ったとされています。

当時の中国の思想

四夷の図。「東夷(とうい)」「 西戎(せいじゅう)」「南蛮(なんばん)」「北狄(ほくてき)」に分かれる。
四夷(wikipediaより引用)

当時の中国では、中国を中心とした東西南北の四方に居住していた異民族に対し、蔑称を付けていました。
それぞれ「東夷(とうい)」「 西戎(せいじゅう)」「南蛮(なんばん)」「北狄(ほくてき)」と呼びます。

朝貢する国に対しては対等に近い形で外交・貿易関係を結ぶ一方で、それ以外の国を四夷や夷狄と呼んで敵対したり不平等な扱いをしていたようです。

ここまでを踏まえ、漢書地理志の上記の文は以下のことを言いたいものと推測されます。

  • 三方(北狄・南蛮・西戎)とは異なり東夷はやや格上である
  • 東夷(楽浪郡支配下の豪族)は箕子朝鮮がルーツであるからだ

孔子を引用した理由

孔子の話をまとめた『論語』という書物の、公冶長第五の中に以下のような記述があります。

「子曰、道不行、乘桴浮于海。」


超簡易的な現代語訳

孔子が話された「天下は(秩序が乱れて)道徳的ではなく(私の理想に程遠いので)、いっそ筏に乗って海外に行こうか。」

『論語』公冶長第五の七

これは、「現世を嘆いて逃避する」という意味の乘桴浮海(じょうふふかい)という四字熟語の語源になった孔子の言葉です。
ここで孔子は、道徳的ではない中国世界を捨てて海外に逃げようか、と冗談めいたことを言っています。
漢書地理志で孔子の話を引用したのは、東の国の道徳性を補足したかったのだろうと思われます。

ここまでのまとめ

少なくとも漢書地理志において中国は、北・南・西の国々に比べて東の国々を少しだけ格上に見ていたようです。
古代中国の文献を読む際に、意図的に”卑”や”馬”など印象の良くない字を充てているとする説もありますが、この一文が反論材料となっている場合があります。
(道徳的な東の国々に対して悪い字は充てないだろうという意見)

まとめ

少なくとも漢書地理志においては、中国は北・南・西の国々に比べて東の国々をやや格上に見ていた。

倭について

先述の通り、倭に触れているのは以下の一文だけです。
『漢書』の完成は西暦80年頃とされていますが、この一文は紀元前1世紀頃の様子だと推測されています。
ただし、特段手がかりはなく正確な時期は分かっていません。

「楽浪海中有倭人、分為百餘國、以歳時來献見云。」


超簡易的な現代語訳

楽浪郡の海の向こうには倭人が存在し、百余りの国に分かれており、季節ごとに貢物を献上していたと言う。

『漢書』巻28『地理志』「燕地条」
ポイント

最後が「云(言う)」と伝聞形になっている部分に注意が必要です。
・単純に、実際見たわけではないので伝聞形にしただけ?
・倭の使者は燕国の都(現在の北京付近)まで行かず、楽浪郡までしか行っていない?
・前漢時代は倭が朝見に来ておらず、前漢以前(周や秦の時代)のことを指している?

※朝見・朝貢した頻度については以下ページを参考に、自分なりに解釈してみてください。
ここでは一番頻度が多い「季節ごと」説を使用しています。

注釈に対する論争


原文「楽浪海中有倭人、分為百餘國、以歳時來献見云。」は、少なくとも邪馬台国論争においてはあまり重要ではありません。
邪馬台国論争において重要なのは、この一文に対して後年に3人が付けた注釈です。

なぜ注釈がこんなにあるかと言うと、漢書の読解は難しいと当時から思われていたためです。
そもそも『漢書』には難読の語句が多く、注釈が乱立しているような状態だったようです。
さらに、大きく分けると北朝(旧注釈)と南朝(新注釈)の二系統があります。
唐時代には漢書学者と呼ばれる漢書の専門家がいたほど、漢書の読解は難しいものでした。

如淳の注釈

如淳とは?

3世紀の魏の官人とされているが、詳細不明。
時代的には、三国志(魏志倭人伝)の著者・陳寿より古い世代とされます。
つまり、魏志倭人伝の影響は受けていないことになります。

『大宋重修広韻』第244 小韻 如条
『大宋重修広韻』第244 小韻 如条

『大宋重修広韻』(1008年完成、漢字の読み方等をまとめた漢字辞典のようなもの)の「如」についての説明に如淳と思われる人物の記述があります。

「而也均也似也謀也往也若也又姓晉中經部魏有陳郡丞馮翊如淳注漢書又畨姓後魏書如羅氏後改為如氏人諸切八」


超簡易的な現代語訳

魏には陳郡の丞である馮翊如淳という人物がいました。彼は『漢書』に注釈を加えました。

『大宋重修広韻』第244 小韻 如条

原文「楽浪海中有倭人、分為百餘國、以歳時來献見云。」
如淳曰:「如墨委面、在帶方東南萬里。」

『漢書』巻28『地理志』「燕地条」

如淳の注釈の解釈の仕方によって、原文を含めた倭についての認識が変わってきます。
そのため、如淳の注釈の解釈は極めて重要です。

倭の由来は入れ墨説

倭の由来は入れ墨文化だと考える説。
「顔面に墨を入れる(委する)風習が”倭”の由来であり、帯方郡の東南一万里ほどに在る。」

如淳が誤記を修正した説

”委は倭の誤記”ということを伝える文だったと考える説。
「墨を入れる(委する)風習から委人が正しい、帯方郡の東南一万里ほどに在る。」

如淳が誤記した説

如淳が倭を委と書き誤ったとする説。
「委人(本当は倭人と書きたかった)は顔に入れ墨していて、帯方郡の東南一万里ほどに在る。」

国の名前説

国の名前で、如墨委を”やばい”と読み、魏志倭人伝でいう邪馬台国に相当すると解釈する説。
「如墨委(やばい)のことである、帯方郡の東南一万里ほどに在る。」

”従順な東の国”を強化する補足説

原文の一文前にある、東国は従順という文を補足する注釈だったと考える説。
(委は”従う”という意味があることから)墨の如く従順な面をした人々、帯方郡の東南一万里ほどに在る。

臣瓚の注釈

臣瓚とは?

臣瓚は3~4世紀の西晋の学者とされているが、詳細不明。
3~4世紀に存在した王賛という人物が臣瓚の本名であるとする説もあります。
サイトによっては北宋の王賛(960年没)の説明を臣瓚として掲載していますが、顔師古(645年没)より前に注釈を付けていることから、この説の信憑性はかなり低いです。

原文「楽浪海中有倭人、分為百餘國、以歳時來献見云。」
如淳曰:「如墨委面、在帶方東南萬里。」
臣瓚曰:「倭是國名、不謂用墨、故謂之委也。」

『漢書』巻28『地理志』「燕地条」

臣瓚の付けた注釈は、如淳の注釈をどう解釈したかでも意味合いが変わってきます。

如淳の注釈を「倭の由来は入れ墨説」とする場合

臣瓚の注釈は、如淳の注釈に対する訂正文になります。
「倭は国の名前で、墨を用いたことではない。よって、(倭は)”委(い)”と発音するのだ。」

如淳の注釈を受けたわけではない説

如淳の注釈を受けたわけではなく、臣瓚の時代の倭について記述したと解釈する説。
「倭は国の名前である。(現在は)墨を用いていない。昔は委と言った。」

ポイント ~故という字の解釈~

「よって」と捉えるか、「昔は」と捉えるかで意味が変わります。

顔師古の注釈

顔師古とは?

顔師古(581~645年)は唐の学者。
李承乾の命によって『漢書』の注釈を作成した顔師古は、北朝(旧注釈)を参考としています。

原文「楽浪海中有倭人、分為百餘國、以歳時來献見云。」
如淳曰:「如墨委面、在帶方東南萬里。」
臣瓚曰:「倭是國名、不謂用墨、故謂之委也。」
師古曰:「如淳云『如墨委面』、蓋音委字耳、此音非也。倭音一戈反、今猶有倭國。魏略云倭在帶方東南大海中、依山島為國、度海千里、復有國、皆倭種。」

『漢書』巻28『地理志』「燕地条」

顔師古の付けた注釈は、細かい部分の解釈の違いはあれど、
”如淳が言う『如墨委面』は間違い。 反切のルールからこれは正しい音ではない。”
というように、概ね『如墨委面』の委と言う字は間違いということを指摘した文章であるという見解は一致しています。

また、魏略からの引用で、倭国の位置を記載しています。
”帯方郡の東南の海の先に、山と島からなる国がある。千里ほど海を渡るとまた国がある。どれも倭人である。”

倭の後の記述

倭については一文だけと言いましたが、実は次の文もかかわっている可能性があります。

「自危四度至斗六度謂之析木之次燕之分也」


超簡易的な現代語訳

(倭人または楽浪郡は)危の4度から斗の6度までの領地である。これを「析木の次」という。燕に属している。

『漢書』巻28『地理志』「燕地条」

これは天文(星)に関する記述と思われます。
楽浪郡から倭までの記述の最後に、主語が無く登場している一文のため、倭のことを指しているかどうかは不明です。
方角的には、素直に読むと北北東を指していることになるものの、どこから見た方角なのかも明記されていません。

ポイント

主語が省略されているため、複数の解釈説が出ている状態。
”危の4度から斗の6度”はどこから見て?楽浪郡?前漢の首都である長安(現在の西安市)?
”危の4度から斗の6度”の先にある地域は倭?楽浪郡?他の地域?


この記述を理解するには、『漢書』「律暦志」の次度に掲載されている二十八宿と十二次というものを知る必要があります。

二十八宿から引用した「危」と「斗」

「危」と「斗」は二十八宿を用いた記述と思われます。

二十八宿の図。漢書に記載された「危」と「斗」が関連する。
二十八宿(wikipediaより引用)

二十八宿は、天球を星宿と呼ばれるエリアに不均等に分割したもので、東西南北の4方角にそれぞれ7宿を配置した合計28宿から構成されます。

4方角を表す青龍(東)・玄武(北)・白虎(西)・朱雀(南)の四象が有名です。

※この図では東西が通常と逆という点に注意

当時の天文学の知識は、間違いがあるなどしっかりしたものではなく、現代とは異なる知識です。
ここで出てくる四度・六度という天文度は、円の1周として現在用いている360度基準ではなく、1太陽年での365度基準だとされています。

十二次から引用した「析木」

「析木」は十二次を用いた記述と思われます。
十二次は、天球を十二等分したものです。

次の図と表は、『漢書』の律暦志・次度を基に二十八宿と十二次の対応させたものです。
※この図では東西が通常と逆という点に注意

十二次十二次二十八宿二十八宿
星紀十二度
牽牛初度
婺女七度
玄枵婺女八度
初度
十五度
娵訾十六度
営室十四度
四度
-(省略)
析木十度
七度
十一度
二十八宿と十二次の対応表。漢書の内容に関連する。
二十八宿と十二次の対応表(http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/sgss_giI2_buntei2.htmより引用)

危の4度から斗の6度、析木の次

以上から、危の4度から斗の6度、析木の次という記述をどう捉えるべきかは研究者によって見解が異なります。
素直に受け止めると、北北東の位置に倭国があることになります。

日本の公式見解?『古事類苑』

漢書地理志の内容については、『古事類苑』という明治政府が主導で編纂した日本唯一の官撰百科事典に意見が掲載されています。
明治政府が主導した史料であるため、日本の公式見解として扱う意見もあります。

「倭の字は、もともろこしの國よりつけたる名にて、その始めて見えたるは、前漢書地理志に、東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設桴於海、欲居九夷、有ル㠯也夫(ユヱカナ)、樂浪海中有倭人、分爲百餘國、㠯歲時來獻見云、といへる是なり、その後の書どもにも、みなかく倭人といひ、又はぶきて倭とのみもいへり、

さて倭とは、いかなる意にて名づけつるにか、その由はさだかに見えたる事はなけれども、かの漢書に、東夷天性柔順と書出して、有倭人とつらねいへるを思へば、班固が意は、說文に此倭ノ字の本義を順貌と注したると同じくて、柔順なる故に倭人とはいふと心得たるごとく聞ゆめり、されどそれも字につきてのおしはかりなるべし、」

『古事類苑』「地部」倭条

古事類苑』の詳細は別途記事にしています。

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