翰苑

翰苑

翰苑は魏志倭人伝をはじめ、倭に関して多くの書物を引用しつつ記述しています。
邪馬台国と思われる記述もあり、貴重な史料です。

見つかっていない書物の引用もあるため、散佚した史料を知る貴重な手がかりです。
一方で、翰苑で引用される文と見つかっている引用元の書物を比較すると違いが多々あるため、全体的な信憑性は微妙です。

目次

翰苑とは

張楚金が著した唐時代の書物です。
後年に雍公叡が注釈を付けています。

ほぼ散佚してしまっているものの、日本の太宰府天満宮に第30巻(蕃夷部)の写本のみが残っており、国宝に指定されています。
翰苑巻第卅(かんえんかんだいさんじゅう)とも呼ばれています。

太宰府天満宮
太宰府天満宮

特徴として、原文は文字数が少なく、他の書物を引用した注釈が細かく記載されている点が挙げられます。
特にこの注釈が貴重であり、同じく散佚している『魏略』を多く引用していることから、魏略の内容を知る貴重な史料にもなっています。

資料データ

著者張楚金
成立年660年以前(大唐顕慶5年、諸説あり)

信憑性

総合評価
( 2 )
メリット
  • 現在は散佚した史料についても引用している
デメリット
  • 引用文が、引用元の文と異なる部分も多い

他の史料から多数引用しているものの、現存する引用元の文と異なる部分も多々存在します。
誤字や脱字(脱文)と思われますが、記述内容を鵜呑みにできません。
同じ理由から、散佚した史料についての引用部も信憑性に欠けます。

ただし、引用元が現存するものに関しては、引用元の書物を読むことである程度誤字などは補うことが可能です。
散佚した史料に関しては確認する術が無いため、真偽の判断や解釈が非常に難しくなっています。

内容

ここでは、倭国に関して記述している部分についてのみ抜粋・記載します。

倭国の概要

「憑山負海鎮馬臺以建都」


超簡易的な現代語訳

(倭国は)山や海に接したところに「馬臺」という国を鎮めて、都を建てている。

『翰苑』
疑問点

「鎮」という字の解釈

一般的には「鎮」を”しずめる”と解釈します。国を置くのようなニュアンスになります。

少数派ですが、「鎮」を”しずめる”という意味ではなく、次に続く馬臺という言葉とひとまとまりにして、「鎮馬臺」が国名であるとする説も存在します。

疑問点

「邪」という字が無いのは脱字か?故意か?

ほとんどの史料に見られる「邪馬台」の「邪」の字がありません。
単なる脱字の可能性が高いとされています。

疑問点

「臺」の上部が去となっている。誤字か?

翰苑での邪馬台国の文字。「臺」という字の上部が「去」となっている。
翰苑での邪馬台国の文字。「臺」という字の上部が「去」となっている。

「臺」という字の上部が「去」となっていますが、これは誤字の可能性が高いとされます。

ただしこの文は、他の書物からの引用ではなく、著者の張楚金が記述した部分である可能性が高いです。
そのため、「邪」という字が無いことや、「臺」の上部が去であることは、意図的の可能性もあるという解釈もあります。

この文には、他の書物からの引用として注釈が2つ付いています。

後漢書からの引用

【注釈】
後漢書曰 倭在朝東南大海中 依山島居 凡百餘國 自武帝滅朝鮮 使譯通漢於者州餘國 稱王 其大倭王治邦臺 樂浪郡徼去其國万二千里 甚地大較在會稽東 与珠雀儋耳相近

『翰苑』

後漢書については以下を参照してください。

魏志倭人伝からの引用

魏志曰
倭人在帶方東南
炙問倭地 絶在海中洲島之山 或絶或連 周旋可五千餘里
四面倶極海 自營州東南 經新羅 至其國也


超簡易的な現代語訳

魏志から引用
倭人は帯方郡東南にいる。倭の地を訪ねると海の中の孤島である。
(島は)離れたり連なったりしていて、周囲は五千里ほどである。
四面はどれも(陸が見えないほど)広い海である。
営州から東南、新羅を経由してその国(倭国)に着く。

『翰苑』注釈より

魏志倭人伝については以下を参照してください。

倭人在帯方東南
参問倭地 絶在海中洲島之上或絶或連 周旋可五千余里

『三国志』巻30『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝」倭人条
「島之山」は「島之上」の誤植か?

魏志倭人伝の原文では、「絶在海中洲島之上」とあります。
”上”と”山”という字を見間違えた、誤植か?

追記された営州からの行き方

「四面倶極海 自營州東南 經新羅 至其國也」という文は魏志倭人伝の原文にはありません。
営州とは後漢から唐時代に設けられていた行政地域で、現在の中国・山東省あたりとされています。
営州は魏志倭人伝の成立年代より後にできたものであるため、この部分は魏志倭人伝からの引用ではなく、後年に付け足された(または翰苑で追加された)注釈と思われます。

倭の女王について

分軄命官統女王而列部

『翰苑』

魏略からの引用

魏略曰 従帶方至倭 循海岸水行 暦韓國到拘耶韓国七十餘里 始度一海 千餘里至對馬國 其大官曰卑拘 副曰卑奴 無良田 南北布糴 南度海至一支國 置官至對同 地方三百里 又度海千餘里 至末盧國 人善捕魚 能浮没水取之 東南五東里 到伊都國 戸万餘 置曰爾支副曰洩溪觚柄渠觚 其國王皆屬王女也

『翰苑』注釈より

卑弥呼について

卑彌娥惑翻叶群情臺與幼齒方諧衆望

『翰苑』

後漢書からの引用

後漢書曰 安帝永初元年 有倭面上國王師升至 桓遷之間 倭國大乱 更相攻伐 歴年無主 有一女子名曰卑弥呼 死更立男王 國中不服 更相誅煞 復立卑弥呼宗女臺與 年十三為王 國中遂定 其國官有伊支馬 次曰弥馬升 次曰弥馬獲 次曰奴佳鞮之也

『翰苑』注釈より

後漢書については以下を参照してください。

倭国について

【原文】
分身點面猶稱太伯之苗

【注釈】
魏略曰 女王之南 又有狗奴國 女男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不屬女王也 自帶方至女國万二千餘里 其俗男子皆點而文聞其舊語 自謂太伯之後 昔夏后少康之子封於會稽 断髪文身 以避蛟龍之吾 今倭人亦文身 以厭水害也

【原文】
阿輩雞彌自表天兒之稱

【注釈】
宋死弟 宋書曰 永初中 倭國有王 曰讃 至元嘉中 讃死弟珎立 自稱使持節都督安東大將軍倭國王 順帝時 遣使上表云 自昔祢 東征毛人五十五國 西服衆夷六 渡平海北九十五國 今案 其王姓阿毎 國号爲阿輩雞 華言天児也 父子相傳王 有官女六七百人 王長子号哥弥多弗利 華言太子

【原文】
因禮義而標袟即智信以命官

【注釈】
括地志曰 倭國其官有十二等 一曰麻卑兜吉寐 華言大德 二曰小德 三曰大仁 四曰小仁 五曰六(大)義 六曰小義 七曰大礼 八曰小礼 九曰大智 十曰小智 十一曰大信 十二曰小信

【原文】
邪届伊都傍連斯馬

【注釈】
廣志曰 倭國東南陸行五百里 到伊都國 南至邪馬嘉国 百女國以北 其戸數道里 可得略載 次斯馬國 次巴百支國 次伊邪國 安倭西南海行一日 有伊邪分國 無布帛 以革爲衣 盖伊耶國也

【原文】
中元之際紫綬之榮

【注釈】
漢書地志曰 夫餘樂浪海中有倭人 分為百餘國 以歳時獻見
後漢書 光武中元年二 倭國奉貢朝賀使人自稱大夫 光武賜以印綬 安帝初元年 倭王師升等獻生口百六十

漢書地理志の原文は「楽浪海中有倭人 分為百餘國 以歳時來献見云」であり、先頭の「夫餘」という文字はありません。

【原文】
景初之辰恭文錦之獻

【注釈】
槐志曰 景初三年 倭女王遣大夫難升未利等 獻男生口四人 女生六人 斑布二疋二尺 詔以爲新魏倭王 假金印紫綬 正始四年 倭王復遣大夫伊聲耆振邪拘等八人 上獻生口也

魏志倭人伝の原文では、景初三年ではなく景初二年となっています。

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