後漢書

後漢書

『後漢書』には魏志倭人伝をベースにしたと思われる記述があります。
しかし後漢書は魏志倭人伝と少し異なる記述があるため、どちらが正しいのか、という解釈の問題を引き起こす一因ともなっています。

目次

後漢書とは

後漢書は、「本紀」10巻・「列伝」80巻・「志」30巻の合計120巻で構成される、中国の王朝・後漢(25~220年)について記した歴史書です。

後漢書のベースになる史料の成立過程

中国の歴史は、王朝が変わった際に前の王朝の歴史を記録することが多いのですが、後漢は王朝として君臨する間に自身の歴史の記録を試みていました。
何人もの人物が執筆にあたり、最終的には225年までに楊彪がまとめて『東観漢記』という書物を作成しました。

しかし、複数人が編纂しており一貫性に欠けるなどの理由から、後年に一人で後漢のことをまとめる動きが活発化します。
その結果、『後漢記』『続漢書』など9種の書物がそれぞれ別の人物によって作成されました。
これらのいくつかをまとめて、七家後漢書あるいは八家後漢書などとも言います。

書物名著者(国と生没年)書式
後漢書謝承(呉、生没年不明)紀伝体
後漢記薛瑩(呉、生年不詳~282年)紀伝体
続漢書司馬彪(西晋、生年不詳~306年)紀伝体
後漢書華嶠(西晋、生没年不明)紀伝体
後漢書謝沈(東晋、生没年不明)紀伝体
後漢南記張瑩(東晋とされるが生没年も含め詳細不明)紀伝体
後漢書袁山松(東晋、生年不詳~401年)紀伝体
後漢紀張璠(東晋、生没年不明)編年体
後漢紀袁宏(東晋、328~376年)編年体
七(または八)家後漢書とされる9種の歴史書

范曄がまとめた後漢書

范曄は、9種のうち編年体の2種を除いた紀伝体の7種と『東観漢記』を利用して後漢の歴史書を執筆しました。
これが現在一般的に言われる『後漢書』のです。

しかし范曄は、「志」を完成させられませんでした。
そこで後年になって劉昭が、七家後漢書の1つである『続漢書』の志の部分を『後漢書』に合併させ、130巻からなる『後漢書』の注釈集『集注後漢』を作成しました。
これが現在伝わっている『後漢書』になります。

その後年にさらに李賢が、本紀・列伝に対して注釈を作成しています。

メモ

現在の『後漢書』は
本紀・列伝は范曄著・李賢注
志は司馬彪著・劉昭注

国・王朝出来事備考
220年後漢が滅亡・魏が建国その後三国時代へ
220~225年頃後漢のことを記した『東観漢記』を楊彪が完成させる
225~400年頃9人がそれぞれ後漢に関する書物を編纂
280年西晋が中国を統一し三国時代が終了この頃(265~306年)に司馬彪が『続漢書』を編纂後に後漢書の「志」になる
280~297年三国(魏呉蜀) のことを記した『三国志』を陳寿が編纂
317年西晋が滅亡・東晋が建国
432~445年頃後漢のことを記した『後漢書』を范曄が編纂「本紀」と「列伝」のみ
502~557年頃劉昭が『後漢書』の注釈集『集注後漢』を作成本紀・列伝・志が揃う
676年李賢が『後漢書』の本紀・列伝に注釈を付記
後漢の歴史書に関する年表

資料データ

著者范曄(本紀と列伝)、司馬彪(志)
成立年本紀と列伝は432~445年、志は306年以前
ポイント

王朝の流れとしては、「後漢 → 三国(呉蜀魏) → 西晋 → 東晋」です。
しかし、後漢のことを范曄が再度まとめたことで、歴史書の成立年は三国志の方が早くなっています。

出典

倭国に関する記述は、巻85「東夷列伝」内にあります。
この部分は、『後漢書倭伝』や『後漢書東夷伝』と呼ばれることもあります。
(後漢書における巻の数え方は本紀・列伝・志のトータル。「本紀」1~10巻の後、「列伝」の1巻目は11巻として数える。)

原文を見る@国立国会図書館
(2024.01.14 閲覧確認、目次の1~33巻のうち倭に関する記述は32巻のP17から)

信憑性

総合評価
( 2.5 )
メリット
  • 二十四史の一つに数えられ、記述事象についての信憑性自体は高い
デメリット
  • 曹操を悪く見せようと、史料の細かい部分は改変されているとする見方が強い
  • 東夷関連はオリジナル要素が薄いうえ、魏志倭人伝とは内容が微妙に異なる

後漢書全体としての信憑性

二十四史の一つに数えられ、記述事象についての信憑性自体は高いです。
しかし、細かい部分は改変されているとする見方が強いのも事実です。

後漢書は、魏呉蜀の三国時代の魏の流れを継いだ北朝に対立した、南朝側で編纂されています。
そのためか、魏の建国者である曹操を悪く見せようと史料改変している部分があるとされています。
一方で、史料改変自体に疑問を持つ学者もおり、議論されているところです。

倭に関する部分の信憑性

先述の通り、後漢書は七家後漢書と『東観漢記』がベースになっています。
ただし倭を含む東夷についての記述は、後漢書より先に成立していた三国志(魏志倭人伝)の内容を基にしていると思われ、いくつか追記事項があるもののオリジナル要素は薄いです。

魏志倭人伝を基にしているとする根拠は、魏志倭人伝と内容が酷似していることや、七家後漢書で東夷について触れているのは謝承の『後漢書』くらいしかなかったとされるためです。
なお、七家後漢書は散佚して現存しないものもあるため、本当に東夷に触れた書物が少ないかは不明瞭です。

疑問点

後漢に関する歴史書のほとんどは東夷に触れていません。
もしかして、後漢は東夷諸国の情報を知らなかった?
これは、魏志倭人伝に無く、後漢書に有る、という記述についての信用度に関わります。

また、魏志倭人伝の内容と似てはいるものの、字が違う箇所が数カ所あります。
どちらが正しいのかは不明ですが、後漢書の東夷関連はオリジナル要素が薄いため、後漢書の倭に関する部分は鵜呑みに出来ないとの見方が一般的です

後漢書の内容

ここでは、後漢書の中で倭国・倭人に関して記述している部分についてのみ抜粋・記載します。

なお、先述の通り范曄が著者ですが後年に李賢らが注釈を追加しており、()内はその注釈に当たります。

後漢書の中で倭について記載している部分の冒頭
後漢書の中で倭について記載している部分(赤字部はその冒頭)

朝鮮半島

朝鮮半島のことを記述する中で、倭に少し触れている部分がある。

韓有三種。
一曰馬韓二曰辰韓三曰弁辰。
馬韓在西有五十四國。其北與楽浪南與倭接。
辰韓在東十有二國。其北與濊貊接。
弁辰在辰韓之南亦十有二國。其南亦與倭接。
凡七十八國、伯濟是其一國焉。大者萬餘戸小者數千家。各在山海間。


超簡易的な現代語訳

韓は馬韓、辰韓、弁辰の三種類がある。
馬韓は西にあり54国があって、南は倭と接す。
弁辰の南はまた倭と接している。
百済はその一国である。大国は一万余戸、小国は数千家。それぞれ山や海の間にある。

『後漢書』「東夷列伝」韓条
メモ

十有二國の”有”は現代語の「プラス、また、と」のようなニュアンス。
よって「十有二國」は10と2国( = 12国)となります。
例文として、論語より「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。(50~70は省略)」
”有”という表現は10~19の際に使用するもの?

下図は1~4世紀頃の朝鮮半島の勢力図( ハイパー世界史用語集 より引用)です。

1~4世紀の朝鮮半島の勢力図。朝鮮半島は、楽浪郡や帯方郡の直接・間接的支配下にあった。
1~4世紀の朝鮮半島の勢力図

魏志倭人伝は『三国志』の中の一部で、その三国志の中には朝鮮半島について記述した、通称「魏志韓伝」があります。

以下は魏志韓伝の中から、後漢書の内容に近しい部分を抜粋したものです。

韓在帯方之南。東西以海為限南與倭接。方可四千里。有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓。辰韓者古之辰國也。
馬韓:凡五十餘國。大國萬餘家小國数千家。揔十餘萬戸。
辰韓:始有六國稍分為十二國。
弁辰:弁辰亦十二國。十二國亦有王。

魏志韓伝から該当部を抜粋
後漢書魏志韓人伝
韓の全容韓有三種。
一曰馬韓二曰辰韓三曰弁辰。
韓在帯方之南。東西以海為限南與倭接。方可四千里。
有三種。
一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓。辰韓者古之辰國也。
馬韓馬韓在西有五十四國。
其北與楽浪南與倭接。
馬韓在西凡五十餘國。
是後倭韓遂属帯方。
辰韓辰韓在東十有二國。
其北與濊貊接。
始有六國、稍分爲十二國。
弁辰弁辰在辰韓之南亦十有二國。其南亦與倭接。
凡七十八國。
弁辰亦十二國。十二國亦有王。
百済伯濟是其一國焉。大者萬餘戸小者數千家。各在山海間。記述なし
ポイント

魏志韓伝には、倭がどの国と接しているかは明記されていません。
一方後漢書には、馬韓と弁辰が倭と接しているとしています。

正確には、魏志韓伝は韓の歴史が長々記載されていて、後漢書はそれを簡潔にまとめた結果、倭と接したという結論になったと思われています。
そのため解釈が正しいのかどうか、という議論が必要です。

また先述の通り、「魏志倭人伝に無く後漢書に有る」という記述自体、信憑性が怪しいです。

倭国

全文

まずは、後漢書の倭に関する部分の原文を全文掲載します。

倭在韓東南大海中 依山㠀為居 凡百餘國
自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統
其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)
楽浪郡徼去其國萬二千里 去其西北界狗邪韓國七千餘里
其地大較在會稽東冶之東 與朱崖儋耳相近故其法俗多同
土宜禾稲麻紵蠶桑 知織績為縑布 出白珠青玉 其山有丹土 氣温腝 冬夏生菜茹 無牛馬虎豹羊鵲
其兵有矛楯木弓矢或以骨為鏃
男子皆黥面文身 以其文左右大小別尊卑之差
其男衣皆横幅結束相連 女人被髪屈紒 衣如單被貫頭而著之 並以丹朱坋身如中國之用紛也
有城柵屋室 父母兄弟異處 唯會同男女無別 飲食以手而用籩豆 俗皆徒跣 以蹲踞為恭敬 人性嗜酒 壽考至百餘歳者甚衆
國多女子 大人皆有四五妻其餘或兩或三 女人不淫不妒 又俗不盗竊少爭訟 犯法者没其妻子重者滅其門族
其死停喪十餘日 家人哭泣不進酒食而等類就歌舞為楽
灼骨以卜用決吉凶 行來度海令一人不櫛沐不食肉不近婦人名曰持衰 若在塗吉利則雇以財物 如病疾遭害以為持衰不謹便共殺之
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見
桓靈間倭國大亂 更相攻伐歴年無主 有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆 於是共立為王 侍婢千人 少有見者 唯有男子一人給飲食傳辭語 居處宮室樓觀城柵皆持兵守衛 法俗厳峻
自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王
自女王國南四千餘里至侏儒國 人長三四尺 自侏儒國東南行舩一年至裸國黒齒國 使驛所傳極於此矣
會稽海外有東鯷人 分為二十餘國 又有夷洲及澶洲
傳言秦始皇遣方士徐福将童男女數千人入海求蓬萊神仙不得
徐福畏誅不敢還遂止此洲 丗丗相承有數萬家 人民時至會稽市
會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者所在絶遠不可往來

『後漢書』「東夷列伝」倭条
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倭の場所

「倭在韓東南大海中、依山㠀為居、凡百餘國。」


超簡易的な現代語訳

倭は韓の東南の大海の中にある。山島からなる所に居住する。およそ百余国。

『後漢書』「東夷列伝」倭条

「倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。」


超簡易的な現代語訳

倭は帯方郡の東南の大海の中にある。山島からなる所に居住する。およそ百余国。

『三国志』巻30『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝」倭人条

魏志倭人伝と同じような内容だが、後漢書では出発点が帯方郡ではなく韓となっている?

邪馬台国の場所

自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統
其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)
楽浪郡徼去其國萬二千里 去其西北界狗邪韓國七千餘里
其地大較在會稽東冶之東 與朱崖儋耳相近故其法俗多同


超簡易的な現代語訳

武帝が朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。みな王を称して代々受け継いでいる。
その大倭王は邪馬臺国に居る(注釈部分は後述)
楽浪郡の国境は其の国を去ること一万二千里、その西北の境界の狗邪韓国を去ること七千余里。
その地はだいたい会稽・東冶の東にあり、朱崖・儋耳に近いため、法や風俗の多くは同じである。

『後漢書』「東夷列伝」倭条
疑問点

・東冶は東治の誤記かどうか
・狗邪韓國はどこから七千里?
・注釈部(案今名邪摩惟音之訛也)の解釈

会稽東治か会稽東冶か

魏志倭人伝では「会稽東」、後漢書では「会稽東」と記述されています。
これについては別途記事を設けているので、ぜひ参照してください。

狗邪韓國はどこから七千里?

魏志倭人伝では「従郡至倭(郡より倭に至るには)」だが、後漢書では「至倭」ではなく「去其」と曖昧な表現になっています。
一方で、魏志倭人伝では「郡(通常は帯方郡と解釈)」とだけ書かれており曖昧だが、後漢書は「楽浪郡」と明記しています。
そのため、「其」が何を指しているかという解釈によって、邪馬台国の比定地が大きく変わってしまいます。

注意点

後漢書は「後漢時代」のことを、魏志倭人伝は「魏時代」のことを記述しています。
中国王朝は後漢→魏(呉蜀)→西晋と進むため後漢の情報の方が古いものの、魏志倭人伝の方が後漢書より成立が早いです。

帯方郡は後漢末期に楽浪郡から分割して誕生しています。
したがって、後漢時代の楽浪郡の領地は、魏時代の楽浪郡+帯方郡です。

「帯方郡境界から去るとその国まで」説

後の帯方郡の場所から倭に至ると考える説。一般的な考え。

楽浪郡徼去其國萬二千里
→帯方郡境界から去るとその国(邪馬臺國 or 倭国)まで一万二千里

去其西北界狗邪韓國七千餘里
→(帯方郡境界から)去るとその国(倭国)の西北境界の狗邪韓國まで七千里

「楽浪郡境界から去るとその国まで」説

魏志倭人伝に倣って郡から倭に至るが、後年でも楽浪郡の場所であるとする説。
この説は、後漢時代の楽浪郡の領地が魏時代の楽浪郡+帯方郡であることを考慮し忘れている可能性がある。

楽浪郡徼去其國萬二千里
→楽浪郡境界から去るとその国(邪馬臺國 or 倭国)まで一万二千里

去其西北界狗邪韓國七千餘里
→(楽浪郡境界から)去るとその国(倭国)の西北境界の狗邪韓國まで七千里

「その国から去ると楽浪郡境界まで」説

その国、つまり、倭 or 邪馬台国から楽浪郡までと考える説。
やや異端な意見という印象だが、どこに至るかを明記していないため正しい解釈の可能性もある。

楽浪郡徼去其國萬二千里
→その国(邪馬臺國 or 倭国)から去ると楽浪郡境界まで一万二千里

去其西北界狗邪韓國七千餘里
→その国(邪馬臺國 or 倭国)から(倭国の)西北境界の狗邪韓國まで七千里

土宜禾稲麻紵蠶桑 知織績為縑布 出白珠青玉 其山有丹土 氣温腝 冬夏生菜茹 無牛馬虎豹羊鵲

後漢書東夷列伝倭条

其兵有矛楯木弓矢或以骨為鏃

後漢書東夷列伝倭条

男子皆黥面文身 以其文左右大小別尊卑之差 其男衣皆横幅結束相連 女人被髪屈紒 衣如單被貫頭而著之 並以丹朱坋身如中國之用紛也

後漢書東夷列伝倭条

有城柵屋室 父母兄弟異處 唯會同男女無別 飲食以手而用籩豆 俗皆徒跣 以蹲踞為恭敬 人性嗜酒 壽考至百餘歳者甚衆

後漢書東夷列伝倭条

國多女子 大人皆有四五妻其餘或兩或三 女人不淫不妒 又俗不盗竊少爭訟 犯法者没其妻子重者滅其門族

後漢書東夷列伝倭条

其死停喪十餘日 家人哭泣不進酒食而等類就歌舞為楽

後漢書東夷列伝倭条

灼骨以卜用決吉凶 行來度海令一人不櫛沐不食肉不近婦人名曰持衰 若在塗吉利則雇以財物 如病疾遭害以為持衰不謹便共殺之

後漢書東夷列伝倭条

建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見

後漢書東夷列伝倭条

桓靈間倭國大亂 更相攻伐歴年無主 有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆 於是共立為王 侍婢千人 少有見者 唯有男子一人給飲食傳辭語 居處宮室樓觀城柵皆持兵守衛 法俗厳峻

後漢書東夷列伝倭条

自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王 自女王國南四千餘里至侏儒國 人長三四尺 自侏儒國東南行舩一年至裸國黒齒國 使驛所傳極於此矣

後漢書東夷列伝倭条

會稽海外有東鯷人 分為二十餘國 又有夷洲及澶洲 傳言秦始皇遣方士徐福将童男女數千人入海求蓬萊神仙不得 徐福畏誅不敢還遂止此洲 丗丗相承有數萬家 人民時至會稽市 會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者所在絶遠不可往來

後漢書東夷列伝倭条
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