魏略(魏略逸文)

魏略(魏略逸文)

『魏略』は魏志倭人伝の元になったと考えられる、倭に関するいろいろな記述が残る史料です。

目次

魏略とは

魏略は原文だけでなく、写本なども見つかっていません。
ただし、いろいろな書物で引用されており、魏略という史料自体が存在していたことは確実です。

現在、魏略(魏略逸文)と呼ばれているものは、いろいろな書物から魏略を引用した部分(逸文)を集めたものを指しています。

資料データ

著者魚豢(ぎょかん)
成立年257年より後

『三国志』賈逵伝の注釈にて「甘露2年(257年)」の記載があり、これが現状見つかっている魏略の最古記事であるため、257年より後に成立していると思われます。

「魏略云:甘露二年 車駕東征 (以下省略・・・)」


超簡易的な現代語訳

魏略には、”甘露二年に車駕は東征した”と書いてある。

『三國志』卷15 『魏志』15/劉司馬梁張温賈傳 賈
ポイント

280~297年成立とされる三国志(魏志倭人伝)よりも、魏略の方が早く完成している可能性が高いとされます。魏志倭人伝では魏略を引用したと思われる記述もあります。
ただし魚豢の生没年は不詳で、魏略と三国志は同時期に編纂していたとする説もあります。

謎の人物 – 魚豢

魚豢は、ほとんど何も分かっていない謎の人物です。
『三国志』には以下のような記述が残っています。

「典略曰:余曩聞劉荊州甞自作書欲與孫伯符(以下省略)」


超簡易的な現代語訳

典略には、”余はかつて聞いた、劉荊州(劉表のこと)はかつて自ら書簡を作って孫伯符(孫策のこと)に与えようとした(以下略)”と書いてある。

『三國志』卷52 『呉志』7 張昭傳

諸説ありますが、魏略は典略という書物の一部だったと推測されています。
つまり、典略も魚豢が著者である可能性が高いのです。
その魚豢が、西暦142~208年に生きていた劉表の話を聞いたと記載しているため、劉表とほぼ同時代の人物と思われる。(この一文から、魚豢は劉表と会ったことがあるとする説もあります)

信憑性

総合評価
( 4 )
メリット
  • 中国のいろいろな書物にて魏略が引用されている。
デメリット
  • 散逸しているため、他の書物で引用されている部分しか残っておらず、全体像が不明である。

魏略は中国のいろいろな書物で引用されていますが、これは信憑性が高いことも理由の一つとされています。
一方で、魏略自体は散逸していて、他の書物で引用されている部分しか残っておらず、全体像が不明であるため評価が難しいともされています。

内容

魏略は魏について記述されたものですが、ここでは、倭国に関して各書で魏略から引用している部分についてのみ記載します。

『漢書』

顔師古がつけた注釈の記載であり、『漢書』の原文には魏略からの引用がありません。

「魏略云倭在帶方東南大海中、依山島為國、度海千里、復有國、皆倭種」

『前漢書』卷28下 『地理志』「燕地」 顔師古注

漢書については、以下を参照してください。

『北戸録』

『北戸録』の著者は段公路ですが生没年不詳で、唐時代の書物とされているものの成立年も不明です。

原文を読む@国立国会図書館
北戸録 卷2 鶏卵卜(鶏卵卜の条はP36、倭国についての記述はP37)
2024.01.12 閲覧確認

「魏略曰高句麗…(中略)…
倭国大事輒灼骨以卜先如中州令亀視坼占吉凶也」



超簡易的な現代語訳

倭国は大事な時には骨を焼いて占いをする。以前の中州(中国の自称とされる)で亀(の甲羅)の裂け目を見るように、吉凶を占う。

『北戸録』 卷2 鶏卵卜

「坼」という字は裂けるという意味です。
古代中国(殷王朝の頃)では、亀の甲羅を焼いてできた裂け目を使って占いする亀卜(きぼく)という文化が存在したようです。漢の時代には廃れ始め、唐時代にはこの文化は廃れていたとされています。

現状日本で見つかっている最古の亀卜の例は、神奈川県三浦市の間口洞穴遺跡で出土した古墳時代後期のものです。

『三国志』(魏志倭人伝)

裴松之がつけた注釈の記載であり、『魏志倭人伝』の原文には魏略からの引用がありません。

「魏略曰其俗不知正歳四時但記春耕秋収為年紀」

『三国志』巻30『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝」倭人条 裴松之注

魏志倭人伝については、以下を参照してください。

『法苑珠林』

『法苑珠林(ほうおんじゅりん)』は道世が著した全100巻からなる仏教典籍で、668年成立とされています。
法苑珠林には魏略からの引用が多数収録されていて、その中に倭に関する話もあります。

「魏略曰倭南有侏儒國其人長三四尺去女王國四千餘里」

叢書『四庫全書』内の『法苑珠林』 巻8

仏教用の本であるためか、ネット上ではあまり詳しい解説や原文が扱われていないようです。
当サイト管理人が探す限り、ネット上で確認でき且つある程度信頼できる原文は以下のリンクです。

原文を読む@维基文库 ※中国のWiki的なものです
2024.01.12 閲覧確認

上記は中国最大の叢書『四庫全書』の中に収録された『法苑珠林』 の巻8の内容です。

豆知識

叢書(そうしょ)とは、1度世に出た単行の書物を集めて一定の書式に整え、総名を冠して1つにまとめた書物として再出版したものを言います。つまり多数の書物の寄せ集めです。

ネット上に公開されていないものでは、以下に記載があるようです。(当サイト管理人は未確認)

  • 道世撰「法苑珠林(百巻)巻第5」(都監 高楠順次郎『大正新修大蔵経 第53巻事彙部
    上』、東京、大正一切経刊行会、1928年)308頁
  • 魚豢撰・張鵬一輯『魏略輯本 巻21』(名古屋、采華書林、1972年)336頁

『翰苑』

翰苑の原文には、注釈として魏略からの引用が記載されています。

「魏略曰 従帶方至倭 循海岸水行 暦韓國到拘耶韓国七十餘里 始度一海 千餘里至對馬國 其大官曰卑拘 副曰卑奴 無良田 南北布糴 南度海至一支國 置官至對同 地方三百里 又度海千餘里 至末盧國 人善捕魚 能浮没水取之 東南五東里 到伊都國 戸万餘 置曰爾支副曰洩溪觚柄渠觚 其國王皆屬王女也 女王之南 又有狗奴國 女男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不屬女王也 自帶方至女國万二千餘里 其俗男子皆點而文聞其舊語 自謂太伯之後 昔夏后少康之子封於會稽 断髪文身 以避蛟龍之吾 今倭人亦文身 以厭水害也」

『翰苑』巻30 蕃夷部

翰苑については、以下を参照してください。

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